先日、このブログでご紹介した
慈照寺 銀閣 の静けさ。
その余韻のまま、昨日はすぐ近くの
哲学の道 を歩いてきました。
春には桜で埋め尽くされるこの道も、
5月のいまは驚くほど穏やか。
やわらかな木漏れ日と、新緑のトンネルがどこまでも続いていました。

かつて哲学者・西田幾多郎をはじめとする文人たちが、
思索に耽りながら歩いたことからその名がついた小径。
人影もまばらで、とても静かな朝。
だからでしょうか。
すれ違う人たちと、自然に「こんにちは」と言葉を交わす瞬間がありました。
観光地なのに、どこか近所の散歩道のような空気。
その何気なさが、なんだか嬉しくなります。

横を流れる琵琶湖疏水の、さらさらという水音。
風に揺れる木の葉の音。
そして、ときおり静寂を縫うように響く、うぐいすの声。
耳を澄ませているだけで、
頭の中の余計な言葉が、ひとつずつほどけていくようでした。

ふと、
「もし足利義政が現代に生きていたなら、こんな新緑の小径を静かに歩いていたのかもしれない」
そんな想像が頭をよぎります。
何も足さない美しさ。
ただ風や音に耳を澄ませる時間。
それはきっと、義政が愛した“わび・さび”にも、どこか通じている気がしました。

道沿いには、小さなお地蔵さん。
そしてベンチのそばでは、
周囲などまるで気にしていない様子で、猫が気持ちよさそうに爆睡していました。
あまりにも無防備な愛らしい寝顔に、思わず口元も緩んでしまいました。
ただ歩いているだけなのに、一歩進むごとに頭の中の雑音がすっと削ぎ落とされ、
心の余白が広がっていくのが分かります。
観光地としての京都も、もちろん美しい。
けれど私は、
こういう“何気ない温かさと静けさ”に出会えた日を、書き留めておきたくなります。
銀閣寺の静かな余韻に触れたあとは、
ぜひそのまま哲学の道を歩いてみてください。
五月の風と、小さな住人たちが、
きっと心にやさしい余白を残してくれるはずです。




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